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ポップカルチャーの変革と衰退 藤原ヒロシ 音楽プロデューサーYOU ARE CULTURE SCHOOL. Vol.1  

2016.05.19
SCHOOL

カルチャーの牽引者である方達によるトークイベント「YOU ARE CULTURE SCHOOL.」。一回目は、音楽プロデューサーとして活躍する一方で、「ザ・プール青山」、「ザ・パーキング銀座」をディレクションするなど、JUNとの関わりも深い藤原ヒロシさんが登場。東京カルチャーの最前線にいる藤原さんが、世界で体験してきたポップカルチャーの変革と、衰退。藤原さんを作ったという「ポップカルチャー」についての特別講義の内容をお届けします。

1. そもそも、「カルチャー」とは何か。

今日はカルチャーについてお話ししたいと思います。今、JUNは「YOU ARE CULTURE.」という合言葉を掲げていますが、では、カルチャーとは何かと聞かれたとき、的確に答えられる人はいますか?カルチャーってすごく難しいものですよね。言葉にできない、空気のような感じです。僕がカルチャーという言葉で感じるのは、企業や行政が使う免罪符のようなもの。懐かしい言葉で、「不倫は文化だ」という言葉がありましたが、これも結局不倫に対する免罪符として、文化とつけておけばなんでも許されるというような感じで使われています。

もともと、カルチャーというのはラテン語で「耕す」という意味からきています。そこから、心を耕すもの、ことがカルチャーだという意味になった。でも、心を耕すものということは、すごくハイソサエティなものだったんですね。貴族にとってのクラシック音楽だったり、オペラ鑑賞だったり。結局ハイクラスの人しか楽しめないものが、カルチャーだった。それに対して、もっと大衆に向けて、みんなで歌おうとか、みんなで楽しみを分かち合おうと出てきたのが、「ポップカルチャー」。

僕は、そのポップカルチャーの中でも、いわゆるカウンターカルチャーだったり、サブカルチャーだったりというものがすごく好きです。ポップカルチャーは、日本語に訳すと大衆文化。でも僕は、ポップカルチャーってそんなに大衆じゃないな、といつも思っています。もっとおしゃれなもの、ファッションっぽいものというイメージがありませんか?大衆ということとは少し違うような。では次に“ポップ”というものについて少し考えてみようと思います。

2. “ポップアート”と、“ポピュラーなアート”の違い。

ポップとポピュラーの違いはなんでしょうか。ポップと聞いてまず僕が思い浮かべるものはポップアートです。ポップアートは、マルセル・デュシャンやリチャード・ハミルトンらが作り出して始まったと言われているんですが、皆さんが思うポップアートといえば、この人ではないでしょうか、アンディー・ウォーホル。マリリン・モンローや毛沢東のスクリーンアートが有名で、改めて説明するまでもないと思います。僕もポップアートといえば、まずウォーホルを思い出します。ほかにも、ダミアン・ハーストやマーク・クインなど。あとは、バンクシーなんかもポップアートと言っていいんじゃないでしょうか。

じゃあ、一体ポップアートとは何なんだろう。このアーティストたちの作品は、決してポピュラーではない。ウォーホルなんかは、ある程度ポピュラーにはなったけど、いわゆる本当の意味での“大衆”ではないと思います。じゃあ、クリスチャン・ラッセンは?彼の作品は、ポップアートとは言われない。この違いはどこにあるのでしょうか。

僕が考えるに、ポップアートと呼ばれるものには毒とかダークサイドとか、つらいものを持っているんです。大衆的な題材を、ちょっと毒を持って見ている。例えばバンクシーなんかは、社会に対するメッセージをアートにしていますよね。人間が本当は語ってはいけないのに、どこか見てみたいという願望のようなものを表しているんだと思います。だから、ポップというものには、どこか毒みたいなものがあるんじゃないのかなと思うんです。

3. パンクから始まった、ポップミュージックとカルチャー。

では、次に音楽の話を。ポップアートが音楽に変わるとどうなるのか。ポップスと言われるものには、明るい、いい曲という印象があります。では、“ポップス”ではなくて、“ポップミュージック”となるとどうでしょうか。これも僕のイメージですが、ポップアートに近い感覚で、ちょっと影とか毒、反抗心がある気がします。さて、僕が中学2年生の時にとにかく聞いていたのが、セックスピストルズ。当時はベイ・シティ・ローラーズやカーペンターズが流行っていて、そういう本当に美しい音楽がポピュラーでポップスの時代だった。それが、新しいポップミュージックという形で、パンクが現れた。僕も中学生の時に、すごく夢中になりました。

ポップアートも、ポップミュージックも、何が違うかというと、カルチャーがあるんですよね。ではここからは、なぜ僕がセックスピストルズを、パンクをポップカルチャーだと感じるかという説明をしていきましょう。セックスピストルズのマネージャーをしていたマルコム・マクラーレンは、デトロイトで50’sのロックンロールの洋服屋さんをしていたんです。そこから、パンクに移行したときに、彼は毒のあるものをファッションに落とし込んでいった。有名なケンブリッジ・レイピストというTシャツがありますが、ここには、ブライアン・エプスタインという、ビートルズのマネージャーの写真が使われています。ちょうど彼が自殺した直後に作られたんですが、彼にはいろいろな噂があって、ジョン・レノンと付き合っていたとか、幼児虐待とか……。そういうことをこのTシャツで暴露しているんです。そこに、ビートルズの楽曲「ア・ハード・デイズ・ナイト」の音符を並べている。ほかにも、12歳の少年が裸でたばこを吸っている写真を使ったTシャツとか、70年代にこういうTシャツを作って着るというのは、クレイジーですよね。ほかにも、セックスピストルズで有名なのはデストロイTシャツ。当時のイギリスやアメリカで、ナチスのマークを身につけることはタブーだったと思います。そのナチのマークに、はりつけになったキリストと、女王陛下の切手のコラージュ。これも日本で着るのとはだいぶ意味合いが変わってきますよね。そのくらい過激なものだったのですが、そういう過激で、ダークサイドで闇があって、みんなが気になるけど表に出せないようなものを踏まえて作り上げたものがパンクだったんです。

4. ファッションと音楽がカルチャーを作る。

こうやって、過激なファッションと、音楽が一緒になって、二つ同時にパンクというムーブメントを起こす、こういうものがやっぱりカルチャーなんだと思います。音楽だけでも、ファッションだけでもカルチャーになりえない。けど、二つがうまく合わさったものが、ポップカルチャーの一つとしてのパンクだったんだと思います。

そして80年代前半、マルコムが次になにをプロデュースしたかというと、ニュー・ウェーヴバンド、バウ・ワウ・ワウです。パンクと正反対で、すごく着飾ったニューロマンティックという文化が流行した時。その少し前、ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコムは、「ワールズ・エンド」というお店を開きました。そこで海賊(パイレーツ)ファッションを売り出す際、パイレーツのムーブメントを作るために、バウ・ワウ・ワウというバンドを結成した。このバンド、ファーストシングルで、「もうレコードを買う必要はない、誰かが持っているものをカセットテープにコピーすればいい」と言っているんです。つまり、いわゆる“海賊行為”と、海賊ファッションをうまく掛け合わせて作り上げたんですね。実際、この海賊ファッションはパンクほど世界的なブームになったかというと、そうでもないと思いますが、これもファッションと音楽によってカルチャーになった一つの例と言えると思います。

その後、マルコムはパンクから飛び出して、ヒップホップという新しい音楽を始めました。自分でヒップホップをやろうと思った時に、スクエアダンスやフォークソング、ヒルビリー音楽などをかぶせて曲を作ったんです。つまり、ヒップホップという黒人の音楽で、絶対に黒人が使わない音楽をミックスさせた。これが彼の才能ですよね。それが、この「バッファローギャルズ」という曲です。アディダスの上下に、マウンテンハットをかぶったスタイルがカッコよくて。2年くらい前に、ファレル・ウィリアムズがマウンテンハットをかぶって活動していましたが、根底にはこういうものがあるんじゃないかなと思います。

マルコムがパンクをやめた後、残されたセックスピストルズのジョニー・ロットンも、ヒップホップ界の重鎮、アフリカ・バンバータと一緒に曲を作りました。それが、「ワールド・ディストラクション」という曲。パンクのジョニーが、ヒップホップのアフリカ・バンバータと一緒に作るとは、誰も思っていなかったと思います。両極端にいた人たちですから。でも結果的にこれも大ヒットして、いわゆるヒップホップが、カルチャーとして旅立ち、世界中でメジャーになった。今の世の中を見てもわかりますよね。これこそ、マルコム・マクラーレンが作り上げたものなんです。


5. 現代の、これからのカルチャー

これまでお話ししてきた1980年代は、パンクがあり、ヒップホップがあり、ハウスミュージックがあった。僕が10代、20代の頃は、少し手を伸ばせばそういう新しいものがあって、そこに向かって「これってなんだろう、次はなんだろう」と探求し、話題になる時代だった。手に取れる少し先のものにワクワクできた。それが、ここ10年、20年の間生まれていない。今の若い人と話していても、音楽好きと言っても、はっぴいえんどが好き、YMOが好きと、過去から掘り出していない。現実的にそういうムーブメントがないから、それしかできない状態なのだと思います。

だから、ファッションと音楽を結び合わせたポップカルチャーは、僕は90年代の前半で終わってしまったと考えています。じゃあ今はどんなことをカルチャーとしているのか。それはJUNもそうだと思いますが、音楽、ファッションだけではなく、ライフスタイル全体として見ていますよね。例えばコーヒーとか、家具とか。そういうことをやっているところは多いですが、何か欠けているなと思うんです。それが、ダークサイドな側面や、ちょっと憂いのある影のようなもの、つまり僕が思う“ポップ”が足りない。この“ポップ”がないと、ポップカルチャーとして根付かないんじゃないかと思っています。これは、ここ5年くらい僕がいつも考えていることですね。

では、今日はこれで終わりにしましょう。ありがとうございました。

あなたを作ったカルチャー

藤原ヒロシ 音楽プロデューサー

「ポップカルチャー」

僕の「ポップカルチャー」の定義は、核となる小さな流行があって、それに深く接している人たちが作り出すもの、マイノリティだけどメインストリームになるような予感を感じさせるもの。セックスピストルズやマルコム・マクラーレンの影響でパンクに目覚めた僕は、高校卒業後に訪れたロンドンで「ポップカルチャー」とは何かを体感しました。パンクとそれに付随するファッションや音楽など、日本にないものに触れ合い、たくさんのことを吸収しました。パンクはマイノリティでしたが、グラムロックやロックンロール、モッズやゲイカルチャーなど、同じようにマイノリティだった人たちとも、近い距離で仲良くなれた。自分がパンクな格好をしていても、ロカビリーの格好をしている人を面白いと思えたし、ディテールは違ってもそれぞれの在り方に共感できたんです。大きなマジョリティがあったから、マイノリティが面白く、マイノリティであることが強さになるということを学びました。そしてそんな「ポップカルチャー」によって、僕という人間が作られたと思っています。

でも、今は「ポップカルチャー」の進化が止まって、衰退してしまっていると感じます。その原因は、メディアやITテクノロジーの情報の速さ。自分で体験して吸収する前に、写真や情報でそれなりのものを知ってしまうので、せっかくあたためたマイノリティ感が育たないのも仕方ないですよ。

僕は、自分が選んで摂取しているものと、世界に発信するものは同じだと思っています。自分が作るものは、誰よりも自分がほしいもの。海外での体験や、これまでの体験で得たものを自分というフィルターを通して世に出しているんです。ゼロから何かを生み出しているわけではないので、さまざまなことを体験して、吸収することの大切さをいつも感じています。

藤原ヒロシ 音楽プロデューサー

1964年生まれ。80年代からクラブDJを始め、高木完とTINNIEPUNKS(後にTINYPANXに改名)を結成。ソロ名義でも多くの作品をリリースした。90年代からは音楽プロデューサーとしても活躍。ファッションの分野でも若者に絶大な影響力を持ち、14年には自身がディレクションするコンセプトストア「ザ・プール青山」をオープン。16年3月には「ザ・パーキング銀座」を出店した。

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