JUN

FEATURE

世に出た時に旬でありながら、時代を超えるもの(前編) 菅付雅信 編集者YOU ARE CULTURE SCHOOL. Vol.3 前編 

2016.08.01
YAC SCHOOL

カルチャーの牽引者である方達によるトークイベント「YOU ARE CULTURE SCHOOL.」。三回目の講師は、クリエイティヴ・カンパニー「グーテンベルクオーケストラ」を主宰する、編集者の菅付雅信さん。アート、写真、ファッション、音楽、映画と様々なカルチャーに精通し、国内外の最先端のクリエイターと創造的な仕事を続けてきた菅付さんが、“編集”という営み、そしてカルチャーの本質を、時代や場所を縦横無尽に飛び越え、語り尽くします。今回はその前編です。

1:自己紹介

僕はカルチャーをメインの題材として編集の仕事をしてきました。そこで、カルチャーが自分にとってどういうものであるか、これからカルチャーがどのように変化していくか、ということをお話ししていきたいと思います。話は五部構成になっています。まず「1. 自己紹介」、次に5000年の編集の歴史を一気に振り返る「2. 高速編集史」。そして「3. 編集とは何か?」。それから僕がカルチャーの真髄であると考える「4. 世に出た時に旬であり、時代を超えるもの」について、最後に「5. 美しいとは何か?」で締めます。

さて、最初に、僕の長いキャリアはすべてカルチャーに関係していることなので、これまでの仕事を紹介します。題して「うんざりするような自己紹介」。まず、僕はグーテンベルクオーケストラという会社を経営しています。名前の由来は、15世紀に印刷を発明して地球上にマスメディアという概念をもたらしたドイツの職人ヨハネス・グーテンベルクです。その人の意思を受け継ぎ、「メディアのオーケストレーション」ができる会社にしたいと思って、この名前にしました。ロゴやCI(Corporate Identity)は、グルーヴィジョンズが手がけています。

いろいろな出版社を経て独立したのですが、きっかけは、谷村志穂さんの書籍『結婚しないかもしれない症候群』(1990年)です。これは最初から絶対にベストセラーにしようと思って編集した本で、狙い通り大ヒットしてテレビドラマ化もしました。結構な編集印税が入り、それを元手として1992年に作ったのが、『コンポジット』という自主制作の雑誌、今で言うZINEです。A3サイズで1キロもある、デカくて、重くて、高い雑誌でした。当時28歳の若造だったんですが、この雑誌に2200万円を突っ込んで大赤字でした……。

その後、営業仕事をしながら借金を返し、97年に『コンポジット』を隔月スタイルで判型を小さくしてリニューアル創刊します。思い出深い取材がたくさんありますが、そのひとつにシャネルが恵比寿ガーデンプレイスで行ったショーを取材したものがあります。カール・ラガーフェルドと79人のスーパーモデルを一堂に会して、篠山紀信さんが大きな8×10カメラで撮影したのですが、セッティングに12時間掛けて、撮影時間は5分でやり遂げました。モデルたちの多くは5分後に成田に向かわなければいけなかったのです。これをシャネル本社のCEOが気に入り、オリジナルプリントを買ってくれて、CEO室に飾ってある写真になっているそうです。

『コンポジット』創刊号(1992年)/『コンポジット』2000年 No.17より。
撮影:篠山紀信

『コンポジット』を出しながら、ぴあ株式会社が発行していた定期購読の月刊誌『おとなぴあ』のリニューアルの話が来て、競合プレゼンだったようですが、それに何故か通り、2002年に『インビテーション』を創刊して、両方の編集長を兼任しました。しかし二つの雑誌の編集長をこなすのは難しく、途中で『コンポジット』だけに戻ります。ただ、『コンポジット』は儲からない雑誌で、関係者からエコの雑誌をやったらいいんじゃないかという勧めで2005年に創刊したのが、『エココロ』です。諸事情により、僕は創刊号で編集長の職を下りてしまうんです。2010年には、博報堂ケトルと太田出版とともに、カルチャー全般を扱う雑誌『リバティーンズ』を創刊しました。しかしなかなか広告が入らずビジネスに苦戦し、これは4号で休刊。

2009年、東京メトロの駅で配布していた月刊のフリーマガジン『メトロミニッツ』のクリエイティブディレクターに就任し、4年間手がけました。この時に最初にやったのが、「トーキョー・ハッピーアワー」の特集です。前年にリーマン・ショックが起きて、時短労働になった大企業のオフィスワーカー向けに「5時からはハッピーアワー」というキャンペーンを打って、『メトロミニッツ』を持っていくと提携したお店の食事や映画が安くなるサービスをはじめたんです。非常にうまくいって、4年連続で夏の時期に登場する特集になりました。また、羽田の国際ターミナルができるときにはJALとANAのキャビンアテンダントの最初で最後の合同撮影をして、大きなバズを起こすことに成功しました。篠山紀信さんに撮影をお願いして、見た目は楽しそうな撮影ですが、永遠のライバル同士なので現場はすごい緊張感だったことが印象深いですね……(笑)。

『コマーシャル・フォト』という写真専門誌では、「流行写真通信」という連載とともに、年に4、5回の写真特集を手がけ、国内外の先鋭的な写真家を取り上げています。僕は写真とアートが大好きで、画集や写真集を数多く編集しています。中でも思い出深いのが、エリザベス・ペイトンの世界初の画集です。当時ペイトンは無名で、出た当初は本も全く売れませんでした。彼女は当時は貧乏で、来月の家賃にも困っているため、5点まとめてこれこれの額で買ってくれと言われたのですが、僕は彼女の作品集のために自腹をつぎ込んで作っていて、今は無理だと断ったんですね。すると、この本の出版後に彼女は内外の雑誌で大きく取り上げられ、3年後に彼女の作品は1点数千万円になったんです。そのとき5点買っていたら、数億円になっていたわけで……。アート・マーケットの計り知れない力を実感したエピソードですね(笑)。

2014年には、東京のギャラリストたちとアートブック専門出版社「ユナイテッドヴァガボンズ」を設立しました。ここで編集、平凡社で出版した『ヴァカボンズスタンダード』というシリーズもあります。書籍の編集では、朝日出版社から、佐藤可士和さんのデザインによる『カルチャー・スタディーズ』シリーズ、グルーヴィジョンズのデザインによる『アイデアインク』シリーズを出しています。食の分野にも興味があり、『VEGE BOOK』(2006年)でヴィーガンを、『LIFE IS ESPRESSO』(2011年)でサードウェーブコーヒーを、いち早く紹介しました。

また、1992年〜97年までの5年間は、ピチカート・ファイヴのマネージメントもしていたこともありますね。そのほか、ファッションの広告、企業のCI、映画やライブのパンフ、アルバムジャケット、展覧会のディレクションなどもしています。坂本龍一さんのレーベル「コモンズ」のウェブサイトのディレクションにも関わり、デザインはSIMONEのムラカミカイエさんに頼んで、日本初のレイアウトフリー、デザインフリーのウェブサイトを作りました。あとは、サンスター文具と組んで「エディターズ・リパブリック」というエディターのための仕事&生活用品のブランドを発足しましたし、商業施設のプランニングもしています。

自著には、『東京の編集』(2007年)、『編集天国』(2009年)、『はじめての編集』(2012年)、『中身化する社会』(2013年)があります。さらに昨年、『物欲なき世界』(2015年)を出版しました。先進国において消費が低迷している状況が続く中で、これが将来どうなっていくのか、それが何を意味しているのかを徹底的に取材して、資料を読み込んで作った本で、おかげさまで5刷りと好評をいただいています。



2:高速編集史

以上のように、僕は編集という仕事をずっとやってきたわけですが、これにはどんな歴史があるのでしょうか。人類はその最初期から、メディアを使ってコミュニケートしてきました。僕は、コミュニケーションの歴史≒メディアの歴史≒デザインの歴史≒編集の歴史と言えるのではないだろうかと考えています。それは言い換えると、「より多くの人に、よりよく伝える歴史」です。そもそも、なぜいまここで歴史の話をするのかというと、イタリアの記号論者で作家のウンベルト・エーコが言うように、「過去を知ることは、あらゆる人間の基盤である」からです。それでは、5000年の編集の歴史を20分で振り返りましょう。

現存している最初の編集物と思われるのは、紀元前2300年頃のメソポタミア、シュメール文明の粘土板です。文字があり、絵があり、それがグリット(格子)状にデザインされている。ということは、人類はこの時点ですでに、言葉とイメージをデザインして何かを残し、人に伝えようにしていることがわかります。また、紀元前2000年頃のエジプト文明の壁画にも、言葉があり、イメージがありました。そして、女王を中心として女中、奴隷とヒエラルキーがわかるようにデザインされています。

時代が下って、紙が誕生します。「ギガス写本」は、現存する最古の聖書のひとつです。約1000年前、印刷機が誕生する以前の手書きの本にも、言葉があり、絵があり、そしてデザインされている。単に適当に書いているわけでは全くない。このように聖書が修道士によって何十年もかけて手書きで受け継がれていた中世の時代、人々は教会に行かなければ知識を得ることはできませんでした。教会が学校、裁判所、図書館、議会、シンクタンク、カウンセラーの役割を担い、何でも答えてくれる、今のGoogleのような存在だったんですね。そういった様子は、先ほど登場したイタリアの作家ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』で描かれています。

シュメール文明の粘土版(紀元前2300年頃)/エジプト文明の壁画(紀元前2000年頃)/ ギガス写本(13世紀初頭)

今度は日本の話をしようと思います。日本の最初の編集物は、古事記と日本書紀と言われています。これは、大和朝廷、つまり当時の日本政府が、自国の公式な歴史を綴った書物として、国力を挙げて作った、たった一冊の本です。もちろん、当時の政府の意向が大幅に反映された歴史書でした。



古事記(719年)/ 日本書紀(720年)

メディアの歴史で革命的だったのは、15世紀、最初にお話ししたグーテンベルクによる印刷機の発明です。これによって、マスメディアが誕生しました。1605年には、ドイツで『Relation』という世界初の新聞が登場します。一方、江戸時代の日本では、蔦屋重三郎という人が、瓦版と浮世絵の製造・販売で、莫大な財を築きました。ちなみに浮世絵の多くは、今でいうエロ本のような要素を持っています。皆さんがよく利用しているTSUTAYAはこの人の名前から取っています。

それまで非常に高価なものだった本を、中身は一流なまま、安い紙で作り、借りるものから買うものに変えようと、1867年にドイツのレクラム社が文庫本を作りました。ゲーテの『ファウスト』からはじまるのですが、この動きに刺激を受けた日本の岩波茂雄が1927年にはじめた岩波文庫も、プラトンやカントのタイトルが第一回配本に並んでます。「今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切実なる要求である」と今でも岩波文庫の最後のページに書いてあるように、文庫本は非常に民主主義的な思想を持って始まったものです。ペーパーバッグも同じ思想で、1935年にアラン・レーンがロンドンで創業したペンギンブックス社から売り出されました。このように、廉価で良質な出版物が、民主主義の基盤をつくったと言えます。



『Relation』(1609年)/ レクラム文庫『ファウスト』(1867年)

広告の誕生についてお話しします。フランスの新聞で広告スペースが設けられたことによってはじまりましたが、その後アメリカのフィラデルフィアで、クライアントと新聞社の間で広告スペースを仲買するブローカーのような立場、今の広告代理店のひな形が登場しました。そして同じフィアデルフィアで、1869年、クリエイティブまで作るN.W. エアー& サンという会社が創業します。これが今の総合広告代理店の起源だと言われています。

メディアの機能が確立されると、今度は、デザインが重要な役割を果たすようになってきます。デザインには、単純に新聞や広告をきれいにする以上の力があるんじゃないかと、若くて意欲的なデザイナーたちが思ったのです。20世紀初頭には、イタリアの未来派、ロシア・アヴァンギャルド、ドイツのバウハウスという3つのデザイン運動が興ります。

日本でもこうした動きに刺激を受けてデザイン運動が生じるのですが、当時は太平洋戦争に突入する真っ只中でした。そのときに日本で最も才能のあるクリエイターたちが集めれれて作ったのが、『FRONT』という雑誌です。これは対外宣伝、つまり日本以外の国のために日本の戦争行為を正当化するための雑誌でした。A3の大きな判型で、きれいな印刷、主に英語を中心とする外国語で作られました。写真は木村伊兵衛で、デザインは原弘。戦後、木村伊兵衛はその名を冠した写真賞によっていまも有名であり、原弘は日本語の基本書体を作るなど、日本を代表するアートディレクターになりました。特に原弘は、バウハウスやロシア・アヴァンギャルドのようなことをやりたい、非常にリベラルなマインドを持った人物だったのですが、そういう人が最も右翼的な雑誌を手がけるというパラドックスが起きていたのですね。

20世紀初頭から、現在に続くような雑誌が次々と登場しますが、そこには大きく二つの方向性がありました。一方では、『TIME』や『LIFE』を代表とするような大衆ジャーナリズムが発展します。他方では、金持ち向けの雑誌を作ろうという発想も生まれました。その筆頭が『ヴォーグ』です。フランス系アメリカ人のコンデ・ナストという元・広告代理店の営業マンが、当時マイナーなゴシップ誌だった『ヴォーグ』を買収して、高級な雑誌に変身させたのです。彼は、「クラス・パブリケーション(上流階級向け印刷物)」という言葉を生み出します。つまり、雑誌は広告ビジネスであり、大衆的にする必要はない、と提示したのです。

日本では、東大で書記、今でいう文字起こしをしていた野間清治が、1910年に弁論雑誌『雄辯』を創刊します。これは、学者や知識人が講演で話していることをまとめたもので、実に売れました。1925年に講談社が創刊した雑誌『キング』は、大正時代に62万部も売れました。様々な題材を扱い、たくさん付録がついているため「デパート雑誌」と呼ばれており、今の付録付きの雑誌の元祖だと言えますね。

こうして印刷物が発達していく中、電波のメディアが誕生します。エジソンの会社にいたレジナルド・フェッセンデンが、1906年に自宅からラジオ放送をはじめました。これを発端として、ラジオが大衆メディアになっていきます。次に、テレビも大衆に浸透します。初めてテレビを一般的に放送した国は、実はナチス・ドイツです。テレビという発明を知ったヒトラーが、これは大衆洗脳に使えると思って、どの国よりも早く導入し、1934年に世界に先駆けて定期試験放送をはじめて、1936年のベルリン・オリンピックではテレビ中継を行い、これが非常に効果的だった。必ず最後に「ハイル・ヒトラー」と言うのが当時のナチス・ドイツの放送でした。これにアメリカが脅威を感じて、アメリカもナチス・ドイツとの戦争に備えるためにテレビ放送をはじめるんですね。

第二次大戦が終わると、アメリカで雑誌の大ブームが起きますが、その中で最も成功したのが、『PLAYBOY』だと言われています。ヒュー・ヘフナーという青年がマリリン・モンローのヌード写真の権利を200ドルで買い、創刊号を作ったところ完売、そして一気にメジャーな雑誌になります。この雑誌、最初の10年間はアート・ポールというアメリカ人がアートディレクションをしているんですが、この人は1940年代にアメリカに移ったバウハウスでデザインを学んだ人だったので、初期の『PLAYBOY』は典型的なバウハウス・デザインなんです。ドイツのアヴァンギャルドなデザイン運動が巡り巡って世界最大のヌード雑誌に活かされたというのは、面白いですよね。



『PLAYBOY』の成功に刺激を受けて、ロックンロールが大好きだったヤン・ウェナーという大学生がはじめたのが、『ROLLING STONE』です。ロック・カルチャーの台頭と同時に部数が伸びていくのですが、60年代から70年代頭に実際に記事を書いていた若いライターの一人、キャメロン・クロウが自分の体験をもとに脚本を書き、監督した『あの頃ペニーレインと』(2000年)という映画があります。その中では『ROLLING STONE』がいかに影響力があったかを見事に描いています。

こうしたアメリカの雑誌に影響を受けて、日本でも若者向けの雑誌が次々と創刊されました。64年には、今のマガジンハウスである平凡出版から『平凡パンチ』が創刊されます。また、アメリカの『ROLLING STONE』に触発され、1972年に『ロッキング・オン』、1974年に『宝島』などが創刊されました。

1968年、アメリカで『Whole Earth Catalog』という巨大な書物が出版されました。スティーブ・ジョブズが最も影響を受けた書物だとよく語っていて、彼はインタビューで「当時、印刷されたグーグルだった」と言っているんです。そういう風に、この本に影響された人がかなりの数でIT業界にいます。これに触発されて、日本でも『Made in USAカタログ』が誕生し、のちに『ポパイ』になります。



このように海外の雑誌に影響されて、日本でライセンスの雑誌が続々登場します。フランスの『ELLE』と契約した『アンアン』とか、アメリカの『Interview』と契約した『スタジオボイス』とか、『Sports Illustrated』と契約した『スポーツ・グラフィック・ナンバー』等があります。こういうメジャーな動きとはまた別に、ロンドンでは新しい雑誌の動きがあります。1980年に『iD』、『THE FACE』という2つのインディペンデント(自主発行)の雑誌が誕生していくのですが、その基本的な精神には、DIYのアティチュードがありました。どちらも最初は、ほぼパンクの雑誌です。

雑誌カルチャーの興隆がある中で、アメリカの西海岸ではコンピューター文化が勃興します。1976年にアップルコンピューターから初号機が出たのち、85年にDTP(デスクトップ・パブリッシング)ができるMacintosh Plusが発表されます。これによって、自分でフォントを選び、デザインしたレイアウトをプリントできるようになり、自分達でも雑誌を作れるんじゃないかという若い人が増えてきて、ロンドンで『DAZED & CONFUSED』、パリで『PURPLE』や『Self service』といった雑誌が生まれました。やはり日本でもインディーズマガジンの流れが起きて、『バァフアウト!』、『スペクテイター』、『TOKION』、『DUNE』が登場、そして僕も『コンポジット』を出します。

そして、インターネットが誕生します。インターネットはもともと、アメリカ国防総省の国家的なプロジェクトとしてはじまりました。核戦争に対応するため、情報をひとつの中央コンピューターに集約するのではなく、複数のコンピューターで処理し、リスクを分散させるという思想から生まれたものです。そのあと、大学間を結ぶネットワークが築かれ、これがWWW(World Wide Web)というシステムになっていきます。そのときはまだテキストだけの仕組みだったのですが、1993年に「モザイク」という画像処理ソフトが登場し、インターネットはヴィジュアルなものに変容していきます。

同じ1993年、これからインターネットの文化が生まれることを予言する雑誌として、『ワイアード』が創刊されます。コンピューター時代のジャーナリズム雑誌ですね。1995年のYahoo!、その3年後のGoogle誕生以前のことです。ちなみに、最初のYahoo!のトップページには、まったく広告が入っていません。むしろ、スタート時は広告が取れるなんてことを夢にも思っていなかったのではないでしょうか。



インターネットが爆発的に発達していくと、個人がメディアになるサービス、すなわちブログが力を持ちはじめます。アメリカを代表するブログメディアといえば、「The Huffington Post」です。今では、月間のユニークビジターが4000万人を超える、新聞以上の巨大メディアに発展しました。そのほか、自由自在に情報をキュレーションし、編集するウェブサービスも登場します。そのひとつとして、「Paper.li」が挙げられますが、これはWEBサイトやブログ、Twitterを登録すると、自動的に、デイリーに、自分用のページを組んでくれる、つまり誰もが編集長になれるようなウェブサービスですね。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の登場にも触れておきましょう。使っている人が多いと思いますが、改めておさらいすると、FACEBOOK、Twitter、Instagramのように、個人がリアルタイムでメディアになるサービスです。

こうして、デジタルな形で進化発展していくメディアはどうなっていくのか。2011年にマイクロソフト社が発表した、未来予想動画をご覧ください。

Productivity Future Vision (2011年)
https://www.youtube.com/watch?v=a6cNdhOKwi0

たぶん、2016年に生きている我々は、これを見てそんなに驚かないんじゃないでしょうか。5年前に発表された、10年以上先の未来予想図のはずですが、皆さんは今現在、スマートフォンを駆使し、長時間PCの前で作業をしていますよね。この動画だと、単にIoT(Internet of Things)化していく、という程度の進化しか描かれていません。

さて、5000年分の編集の歴史をざっと見てきました。僕は、編集の進化を三つの座標軸で捉えています。ひとつ目の軸は、「フロー」と「ストック」。「フロー」は流れていくメディアで、大量伝播に向いていて、即時性が高いもの。例えば、テレビ、ラジオ、インターネット。「ストック」は固定されて残っていくメディアです。アーカイブス性、資料性、物質性、愛着感があるものですね。これには、本や雑誌、レコード、DVDが挙げられます。二つ目の軸は、「権威性」と「参加性」。「権威性」が高いのは、例えば、新聞の社説、学術書、宗教書、ビジネス書、有料メルマガ、会員制サイトといったもの。もう一方の「参加性」が高いのは、投稿雑誌、ZINE、ブログ、SNS等、誰でも参加できるもの。三つ目の軸は、「記録性」と「創作性」。「記録性」が高いのは、なるべくありのままを記録してほしいもの。すなわち、報道やドキュメンタリー、ジャーナリズム、図録、年鑑等です。逆に、「創作性」の高いのは、「面白くしてほしい」、「作為的であってほしい」と思うメディア。エンターテイメントや広告、ファッション雑誌などが挙げられます。

メディアは、このような、「フロー」-「ストック」、「権威性」-「参加性」、「記録性」-「創作性」という三次元マトリクスの中で、進化、発展しているものじゃないかと思います。僕はこれに従い、自分がいま作っているもの、作りたいものは、どの座標軸でどういう方向に向かっているのかを考えるようにしているんです。

3:編集とは何か?

世の中には、本や雑誌、カタログ、フライヤーと、編集物が溢れています。ウェブサイトも、電子書籍、アプリも編集物でしょう。では、編集とは何なのか? 僕が思うに、紙もデジタルも含め、すべての編集物は、「企画を立て」、「人を集め」、「ものを作る」という三つの概念を満たしています。そして、実際に「ものを作る」ときの編集の三大要素は、「言葉」、「イメージ」、「デザイン」です。ちょうど、音楽の三大要素が「メロディ」、「リズム」、「ハーモニー」であるのと似ていますね。このように、「企画を立て」「人を集め」「ものを作る」というプロセスで、「言葉」「イメージ」「デザイン」という要素を含むものが生まれたら、それは「編集物」と呼べるのではないかと僕は考えています。

実際、僕らは毎日編集しながら生きていると考えて過言ではありません。普段、SNSを利用している人が多いと思いますが、毎日、なんらかの情報を編集し、発信していくのが当たり前の世の中で、僕らは日常を生きているので、21世紀は「大編集時代」と呼べると思うのです。そういう世界では、編集的なメソッドを持っているほうが楽しいはずなんじゃないかと思います。SNSを含め、個人がますますメディアとなり、コンテンツとなっているこの時代では、人生を編集し、作品化をしていくことで、よりよい人生が送れるのではないでしょうか。

では、どうすればよりよく人生を編集し、作品化できるのか。僕はよく編集を料理に例えます。動物の中で、人間だけが何かを食べるときに料理をします。それは、食材を「おいしく、食べやすくする」ためです。同じように、僕らは何かを人に伝えるとき、よりよく伝えようと思って、編集しながら伝えているわけですね。したがって、編集とは、情報を「おいしく、食べやすくする」こと、つまり「情報の料理」と呼べると思います。このとき必要なのは、情報を面白くアップデートし、触発的にすることです。すなわち編集とは「information(伝達)をinspiration(触発)にする」仕事なのです。「面白さ」にはいろいろな定義が可能ですが、僕は「それまでの文脈から外れたもの」と考えます。日常や常識から逸脱したほうが、人は面白いと感じてくれる。そのために、情報に「ファンタジー」や「偏愛」といった調味料や毒を入れて、料理していくことが大切です。

そして、抜群に、激しく面白くするためには、ある種の狂気とコミュニケートする必要があります。逆に言うと、それができないと、あまり面白くならない。ですから、編集者は、仲介者でもあるわけです。情報と娯楽、日常と非日常、常識と狂気、国内と国外、クリエイターと社会、そして芸術と資本の架け橋。時代の旬なネタを、旬なクリエイターとともに料理して、旬なメディアで発表する、触発屋としての仕事です。残念ながら、僕たち編集者は写真も撮れないし、スタイリングもできないし、デザインもできないし、文章もそれほど上手くない。しかし、一流のプロフェッショナルと組むことによって、どんなことでも可能になる。だから僕はいつも、編集者とは「何もできない、何でもできる人」という風に説明しています。

-後編に続く-

あなたを作ったカルチャーは何ですか?

菅付雅信 編集者

「世に出た時に旬でありながら、時代を超えるもの」

小さい頃から本や雑誌が大好きで、かなり早熟な読書少年でした。ありがちですが、ミステリー小説にどっぷりはまり、中学生になると洋楽にはまる日々。ラジオではディスコ・ミュージックとパンクが普通にヒット曲として並列で流れていて、その両方へだてなく好きでした。当時はジョン・トラボルタのように踊りたく、ブルース・リーのように強い男になりたかった。ただの馬鹿ですね。

そして1979年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のロサンゼルスのライブ映像をレコード店の店頭で見て稲妻に打たれたような衝撃を受け、それからテクノポップ〜ニューウェイヴ三昧。またYMOを起用した創刊イベントを1980年にやった小学館の『写楽』と、同年に創刊されたマガジンハウスの『ブルータス』が大好きになり、それらや音楽雑誌をむさぼり読む10代中後半。大学進学で上京したものの、ミニコミ(今でいうZINE)づくりと雑誌編集部でのバイトに明け暮れ、大学はほとんど行かず、編集部と本屋とライブハウスと映画館と喫茶店が自分にとっての学校でした。

気持ちは死ぬまで18歳(18 until die)のまま50代に突入した今でも、カルチャーとは何か?と訊かれても、それは未だによくわかりません。それは「美しいとは何か?」という問いに、誰もうまく答えられずにいるのと同じかと。ただ、僕を形成したカルチャーは、「世に出た時に旬でありながらも、時代を超える価値を持ったもの」と言えるのでは。さらに、ある世界観のもとで総合的に編み集められたものに魅入られてきています。ロックやヒップホップが、単に音楽だけでなく、独自のグラフィックやファッションなども伴って登場したように。

編集者という仕事に就いて、本や雑誌だけでなく、ウェブや広告、そしてブランドや商業施設のプランニングも手がけるようになっても、旬でありながらも時代を超えるものを創るという意識は変わりません。そして、それが人々の心をより良く動かせるよう、より良く編み集められているかどうか。そのミッションを全うすることが、10代の時に授かったカルチャーへの恩返しだろうと思っています。

菅付雅信 編集者

株式会社グーテンベルクオーケストラ代表取締役。1964年宮崎県生まれ。法政大学経済学部中退。『コンポジット』『インビテーション』『エココロ』の編集長を務め、出版からウェブ、広告、展覧会までを編集し、コンサルティングやストラテジー立案を行う。書籍では朝日出版社「アイデアインク」シリーズ、「電通デザイントーク」シリーズ、平凡社のアート文庫「ヴァガボンズ・スタンダート」シリーズを手掛ける。2014年にアートブック出版社「ユナイテッドヴァガボンズ」を設立。2015年に株式会社グーテンベルクオーケストラを設立。下北沢B&Bにて「編集スパルタ塾」を開講中。多摩美術大学非常勤講師。著書に『はじめての編集』『物欲なき世界』等。NYADC賞銀賞受賞。

RELATED CULTURE RELAY